※この旅行記のはじめからご覧になられたい方は、こちらへどうぞ♪→
ノルマンディーのさまざまな顔
さて、どこから始めましょう。歴史の話になると、複雑になりがちだからねぇ....笑。
まずは、そもそも
「ノルマンディーがどのように誕生したか」からお話するとしますか。
みなさ~ん、歴史の授業、居眠りしないで下さい。
まずは、もともと
「ノルマン人」とは、スカンジナヴィア及びバルト海沿岸に原住していた北方系ゲルマン人のことで、通称「ヴァイキング(海賊)」とも呼ばれる。8世紀後半から9世紀にかけて、西ヨーロッパ各地に進入しさまざまな国に住み着いていった。この時代は、まだフランスが「西フランク王国」の時代で、西ヨーロッパが西フランク王国・中部フランク王国・東フランク王国のみにしか別れていなかった時代。ノルマンディー地方は西フランク王国の一部だったが、9世紀にヴァイキング(ノルマン人)らが侵入し荒らしまわった後、最終的にはパリを包囲して西フランク王・シャルル3世を追い詰めた。その結果シャルル3世は、その侵入してきたノルマン人部族の首領であったロロにノルマンディー地方を与えて、ノルマンディー公として封じた。ロロは改名して、ロベール1世となり、
これがノルマンディー公国のはじまり。
はい皆さん、ここまでついてきてくれてますかぁ~?(笑)
それではイギリスに縁があった
ウィリアム1世とは誰なのか?
それは、6代目ノルマンディー公ロベール2世の愛人の息子であり、7代目のノルマンディー公となった人物(在位1035年~1087年)。
フランスでは、『ギヨーム2世』として知られている。(フランスでは、ウィリアムをギヨームと呼びます。似てるようで似てないよね、笑)。このギヨーム2世は、愛人の息子ということもあり
William de Batard 「庶子公ウィリアム」とも呼ばれる。
彼のイギリスとの縁が始まったのは、1059年にイングランド(イギリス)統一の基盤を築いたアルフレッド大王の子孫にあたるボードゥアン5世の娘
Matilda マチルダと結婚したことから。しかし彼女、実は
ギヨーム2世とは血縁関係にあり(どうつながるかは複雑すぎて私も分からないぃぃ)、そのため一度はランスの教会会議によって婚姻無効宣告を受けている(ローマ教会では親族結婚を禁じていた)。ひゃ~、複雑ぅーー。しかし二人は諦めなかった。ローマ教皇に願い出て特免状を受けて、拒否から4年後の1053年にやっと結婚できたのだ。そして、その罪滅ぼしとしてそれぞれに教会と修道院をノルマンディーの中心都市のひとつ
「Caen カン」に建てたのだ。度重なる修復工事はしているものの、今でもそれぞれしっかりカンの街に残っている。
こちらは、ギヨーム2世(ウィリアム1世)が建てた
Abbatiale St. Etienne サン・エチエンヌ教会とAbbaye aux Hommes 男子修道院。
男子修道院の部分は、カンの市庁舎として今は使われている。
当時修道僧たちが瞑想に使っていた中庭の下には、ローマ時代の遺跡が眠っている。
そして、隣接するサン・エチエンヌ教会には、ギヨーム2世が静かに眠る。
一方、こちらはマチルダが建てた
Abbatiale de la Trinite トリニテ教会とAbbaye aux Dammes 女子修道院。
こちらも女子修道院は、市の会議所として使われている。
そしてこの教会に眠るのが、ギヨーム2世(ウィリアム1世)の妻・マチルダ。
共に、戦争で破壊されなくて良かったよ...ね。
ちなみに、どちらも教会内はいつでも自由に見学することができるが、修道院内は一部分を除いては「ガイド付きの見学」のみ可能。時間帯なども限られていたりするし、実際に11世紀から残っているものは修道院内にはほとんど残っていないので、男子修道院を見学した後の私たちはちょっと物足りない感じがしました。というわけで、女子修道院の見学はパス(笑)
いずれにせよ、教会は必見です。
ふぅ~、疲れましたねぇ。でも、まだ本題に入ってませんね~(笑)
前置きがこんなに長くなってしまうとは思わなかった。
でもこのまま続けたら、相当長くなりそう。
では、続きは明日の授業にしましょう。
きり~つ、礼(笑)。
明日は、本題イギリスとノルマンディーの歴史に関係する
「バイユーのタペストリー」について。
フランスの風が届いたら、応援クリックお願いします♪